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(2002年12月23日(月) 〜 2002年12月12日(木))

  ゆっくり歩くことの意味 2002年12月23日(月) 

 以前、掲示板でご質問いただいたまま返事しないままになっていたことがある。お尋ねの内容は、
「なぜ『アリーテ姫』では歩くスピードが遅いのか」
 というものだった。アニメーションを素材にした心理学の研究をされておられる日大文理学部の横田先生のお話をうかがって、そのあたりの説明のヒントぐらい示せそうな気がようやくして来た。

 アニメーションの「歩き」の作画には色々あるが、例えば、
・「軽快な動き←→鈍重な動き」
 ということでその特徴で表すことが出来る。それから、
・「自然な動き←→不自然な動き」
 という尺度もある、という。
 横田先生の研究成果の中では、「軽快で自然な動き」のとき、見る人はそこに「ファンタジック」なイメージを抱き、「鈍重で自然な動き」を感じるとき同時に「写実性」を見る、というのである。『アリーテ姫』で必要とされているものを考えると、あとは簡単だろう。

 心理学のアプローチでは、こういうことを「刺激」に対する被験者の反応から統計的に導き出していくのだという。そして、映画の作り手たちは、自分自身の抱く印象を溜め込んだり観客の反応を積み重ねたりして、同じことを感覚的に悟ってゆくのである。ということであるらしい。どうやら。



  見たことのある絵の大きさ 2002年12月22日(日) 

 夕食を終えた頃、宅配便がDVDを届けに来たので、結構早く届いたな、と思ったのだが、別のDVDだった。ということで『アリーテ』の完成版DVDはまだ見られずにいる。
 DVDの制作途中でチャプター割を頼まれてしまったとき、割る位置を指定するためにタイムコードを仕込んだ本編だけ入ったDVD−Rをもらっていたものが幸い手元にあったので、それでときどき見ている。何を今更そんなに繰り返して見ているのか、と云えば、見も蓋もなく、ここに書くことを思いつくために、なのである。
 とりあえず、ノートパソコンの15インチ液晶モニターで見ている。もっと巨大なスクリーンで見ていたときには思い浮かばなかったことだが、このモニターサイズには何かデジャブーのようなものがある。考えると、実際に作画していたサイズに似ているのである。
 作画はA4判の用紙で行われた。A4判の紙の周囲に少し余裕を持たせて作画フレームを設けてあるので、実際は15インチモニターに映し出されるものの方が、鉛筆で描いていたときよりも『大きい』くらいなのである。背景画は、さらに小さく描いたものを拡大して合成しているので、ノートパソコンのモニターいっぱいいっぱいに映し出されたものは、原寸より面積で二倍近くも大きいことになる。もちろん、キャラクターも背景も、大ロングサイズのカットなどでは大きい用紙に描いて縮小しているところもあるので、一概には云えないが、本編はだいたいそんな感じで作られている。
 あまりそうした裏話をすると世界観を損ねることになってしまうかもしれないが、「手作業」に対する親近感を抱いていただければという願いとともに、あえて述べておく。
 映画館の大スクリーンにも映し出された画面は、こんな感じの大きさで、紙に鉛筆で絵を描いてたんです。ということで。



  あと10年もたない 2002年12月22日(日) 

 そう。アニメションを教える大学は増えたし、演出家を志す人も多い。それからゲーム界を含めたコンピューター・アニメーションへ向かう若者たちも。危機的なのは、手描きの仕事をするアニメーターの志望者が激減していることである。絵心がある人にとってパソコンは作品をひとりででも完成させられてしまう得難い道具であり、それは個人の作家性を伸ばし、それはそれでとても良いことだと思う。
 中央省庁や各自治体のアニメーション産業への注目度は、最近と見に高まったいるが、同時に未来は黄昏色に包まれ始めている。
 この間、二十代の中堅どころのアニメーターがボヤいていたが、自分と同世代の同業者がいない、少なくとも自分が最初に入ったプロダクションに同期生はいなかった、というのだ。
 人の手が描き出す一画一画の線が、いつの間にか巨大な世界を表現している。そうしたことに魅力を感じてもらえる存在のさらなる出現を願って、『アリーテ姫』をそうした若者たちに捧げたい、と本気で思う。この作品はアニメーター賛歌でもあるのだ。



  ストレス大発散 2002年12月21日(土) 

 思うところあって「映画監督」と名乗るのは返上しようとしていた矢先だったが、そうもいかない一夕であった。

 まず、大学時代の恩師に「学会」に誘われたのである。
 同じゼミの数期先輩に当たる心理学の先生の、アニメーションの表現の心理学的検討はとてもおもしろかった。テックス・アベリーのキャラクターが仰天して飛び出した目の飛び出し長や、あごが抜けた口の全開度にゲージを当て数値化し、その与える印象を分析するお話も底抜けにおもしろかったし、様々なキャラクターの歩きを「自然・不自然」、「軽快・鈍重」で縦軸横軸にとって分類したときそれぞれの象限が「ファンタジー」「写実的」「ディフォルメ」「抽象的」という特徴に類別されるという説も興味深かった。
 その後、懇親会ということになってビールで乾杯となったのだが、そこでひとりの学生が近づいて来た。
「アリーテ姫、見ました」
「あ、それはどうも」
「ビデオで。ビデオの回転率いいみたいですね」
「おかげさまで」
「でも、僕はあの作品を認めません」
「ナニヲッ!」
 大体において、水エタノール噴射中の映画監督、しかも自作をビハインドに背負った状態のそれに対し、未熟な人生経験を根拠に立ち向かうことで自己主張しようだなんて、世間知らずにも程がある。それを許してはこの子のためにならないっ。云って聞かせることにする。たちまち上がるブースト圧、拳はテーブルをバンバン連打する。恩師はこちらの肩を叩き、「もっと云ってやってくれ」とかニヤニヤはっぱをかけて来る。
 なんだか後ろで笑う人が手招きしてるので行ってみたら、学生時代の助手の先生であった。
「あいかわらずだねえ。変わんないねえ。熱いねえ」
 そうだったのだろうか。顔を覚えていてもらえるのも意外なぐらいである。自分では大人しやかに目立たぬ学生でいたはずなのに。これはいけない。それにしても、帰り道気づくと、カラオケでがなりまくったあとのように喉が痛く、しかもなんだかストレスが発散されている。ますますいけない。

 とはいえ、新設の東京工芸大のアニメーション学科の入試面接で、「アリーテ姫のような作品を作りたくて」という受験生が出たそうである。それみろ。ザマをミヨっ!



  2002年12月20日(金) 

「熊イジメ」は、それのあることを元々知っていた博打好きの友人に気に入られてしまった。
 台詞では「熊の芸人」としてあるけれど、あれは賭け事なのである。熊がひるむか、犬がひるむか。
「さあ、賭けた賭けた!」

 犬は玉座の横にも侍っている。これは作画監督尾崎君の趣味。尾崎君は犬好きらしく、どうしてもここに犬を座らせたい、と主張するのである。あるいは尾崎君ならではの取材で、ヨーロッパの王家と猟犬を結び付けていたのかもしれない。

 ずっと後の方で、猪猟の猟犬が出て来る。肉を貪る姿は不気味だが、実はそのまんまの絵が中世の時祷書にある。お陰で、ヨーロッパの森には猪も棲んでいたこともわかる。当時(といっていつなのだろうか?)のヨーロッパは大部分が森に覆われていた。ところどころポケットのように拓けた開墾地だけが人間の世界。あとは赤頭巾と狼の森だったのである。



  さらに花 2002年12月20日(金) 

 城門から外の世界を垣間見る姫君。延々とつづく黄金色の麦畑。その小麦の根方に赤い花が咲いていたのには気づかれただろうか。赤いヒナゲシの花である。
 ヨーロッパでは、麦畑の際にヒナゲシを植えてあることが何故か多い。何故なのかは調べたらわかりそうなことだが、億劫でやっていない。
 クロアチアに行ったときに列車の車窓から見て、その赤い花をいたく気に入ってしまったのだが、帰ってフランスの写真集で見たら、やはり麦畑に赤いヒナゲシが咲いていた。
 多分、「仲良し」なのだと思う。麦とヒナゲシは。



  2002年12月20日(金) 

 考証の話。
 バラの花、アフリカ渡来の「スプレンディフォラ」という品種名は原作にも登場する。写真で見たが、スカーレット一色のいかにも「薔薇」という感じの花だ。問題は、これも先の「マッチ」と同じで、中世にはなかったものだということだ。多分、原作者の好きなバラなのだろうと思う。これを台詞から切り落とすことも出来た。だが、あえて残した。理由としては、原作と原作を愛好する人に向けた敬意、というあたりだと思っていただいてよい。ということで、画面に登場するのもほぼスプレンディフォラになっている。
 中世ヨーロッパに実在したバラは、まだひとえ咲きでほとんど白系である。日本でも野山へ出かけると、たまに野ばらに出会うが、あんな感じ。棘はあっても結構可憐なのである。
 そういうところまで調べておいて、切り落としたことは結構たくさんある。画面作りの造形性がものをいうことが多い。



  火をつける 2002年12月20日(金) 

 BBSでアニメーションが表現する「日常」の話に触れられているが、『アリーテ姫』がそうしたテーマを持つ作品群と並べ置かれる場合もあるのは、生活感のディテールの描写のせいかも知れない。
 衣食住・・・・とくれば、実は重要なのは「火」である。
 アリーテはどうやら火打石を持ち歩いているようなのに気づかれただたろうか。これはちゃんと原作に由来している。といっても日本語版を探しても駄目。原語版にはちゃんと、常にポケットの中にロウソクとマッチを入れている、とあるのだ。マッチ、なのである。このことからもわかるように、原作はリアルな世界観を求めた児童文学ではない。モンティーパイソンみたいなコントなのである。とはいえ、そのロウソクはちゃんと原作(原語版)でも「本を読むため」の目的を持っている。
 さすがにマッチはまずかろう、と火打石にしたのだが、かといって火打石からカンテラの灯心に直に点火するのもあり得そうな話ではない。作画的な手間などからそういう表現になってしまっているのだが、そこはしめたもの。効果音の方で気を利かして、火打石の「カチ! カチ!」のあとに「ショボワッ!」と火縄に点火したような音をつけてくれていたのだ。
 ということで、点火順序は「火打石」→「火縄」→「灯心」ということなのだということでご理解いただけると、こちらとしても安堵できるというものである。



  健在 2002年12月15日(日) 

いろんなことがあった昨日の最後に、この業界における「母」とも云うべき方に久しぶりにめぐり合える。ご夫君の葬儀以来だから、もう五年にもなんなんとするご無沙汰振りであり、しかもそれ以前も随分と音信を途絶えさせてしまっていたのは恩知らずの極みといって良い。葬儀では、ご夫君の霊に対し「いつまでもこの辺を漂って皆のことを見守ってなさい」と力強く命ぜられていた厳母であり、むしろ歴戦の闘士なのである。若いうちは何かにつけこの方のところに相談に行った。最初の職場を飛び出した後、流浪に迷っているこの不肖の大後輩に対し、ご夫婦それぞれから仕事場を紹介していただいた。
『A姫』のDVDをお送りしたいところなのだが、プレイヤーはお持ちなのだろうか、とかそんなことをウジウジ考えている。



  ようやく 2002年12月12日(木) 

『ハイジ』最終回に到達。







 
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