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(2001年09月18日(火) 〜 2001年08月19日(日))

  そういえば歯がなかった 2001年09月18日(火) 

 制作中に尾崎君に似顔を描かれて張り出されたことを思い出した。かわいくにっこりしている似顔の自分には前歯が一本欠けていた。
 元々差し歯だったのだが、「名犬ラッシー」をやっている最中にそれがはずれ、とにかく寝る暇もない忙しさだったので数ヶ月そのままにしていたら、差し歯がはまらなくなった。若い歯医者さんが強引にはめようとして、どうやら歯根が割れてしまったらしく、二度とその差し歯は元へは戻らない状態になってしまった。
 それからもまた忙しさにかまける毎日が何年かつづき、「アリーテ」のとき、まだそのままになっていたのだ。
 ようやく「アリーテ」も片がついた去年の秋から、吉祥寺の歯医者さんに通い始め、色々悪いところをまとめて修繕してもらった。差し歯が抜けたところも別の方法で歯を取りつけてもらった。だから、「アリーテ」の宣伝期間中にあちこちでたくさん撮られた写真にはきちんと歯が揃って写っているはずだ。なんだか歯医者へも人並みに通える日々というのは、怠惰なような気がする。気がしてしまう。



  ああでもないの日々 2001年09月13日(木) 

 次に作るべき仕事を構想する、という仕事を毎日している。
 ああでもないこうでもないと自分の中で築き、また崩す作業をほとんど心の中だけで繰り返す毎日はけっこうつらい。もう少し形になってくると楽しみも沸いてくるのだろうけど、それはもう少し先のことだろうと思う。
 庭の植木鉢にサボテンが植わっている。
 前にアリーテの準備でやはりああでもないこうでもないと言っていた頃、誰がそんなことをしたのか、準備室のアパートの近所の水溜りの埋め草になっていたサボテンを見つけたのだ。なんだか捨てておけず、拾って準備室に持って帰ってアイスのカップに植えてやった。準備作業のあいだ机に乗っていたそいつは、時々水やりを忘れてしなびかけ、それから何度か訪れた冬の度に霜枯れたり、しなびたりして来たが、その度ごとに芽吹き返して生き返り、今も我が家の庭にいる。
 季節が巡ってまたあの頃と同じ日々の中にいる。



  反省 2001年09月10日(月) 

 ここだけならともかく某所にまで出かけて、疲れただのなんだのと愚痴をこぼしてしまったら、たくさんの人から励まされ、健康法の伝授をいただいてしまった。
 週末に集まった同年代の人たちとボーリングなどに興じてみたところ、みな颯爽としたフォームを決め、あまつさえ余勢をかってオールナイトの映画まで観に行くなどという勢いだったので、こちらはほうほうの体で退散、自分ひとりより以上にくたびれきった気分になってしまっていたのだった。今日話を聞いたら颯爽としていたはずの40男たちも、みなあそこが痛いだのと言っており、なんだやっぱりそんなもんかと、おかげさまでこちらは少し元気を取り戻すことが出来てしまった。
 もう愚痴はこぼしません。多分。



  今日の出来事 2001年09月09日(日) 

 一日布団の上で寝て過ごす。
 特に重いものを運んだりすることのない毎日なのだが、変に体から疲れが取れない。
 今日は半日寝て、残りの時間は本棚を買って来て、枕元に散在する本をきれいに納めようという計画だったのだが、結局昼寝だけで終わる。
 以前『アリーテ』の準備中に日記をつけていたはずなのだが、どこへ行ってしまったのだろう? そこにも毎日「ダルい」「疲れが抜けない」と書き連ねていたのを思い出す。多分ずっとこんな調子だったのだ。



  最近更新しないという声に我にかえる 2001年09月08日(土) 

 今夜は親しい友人たちと席を共にした。そこでこのコラムへの書き込みが滞っているがどうしたのか、と訊ねられた。そんな大袈裟にいわなくったってほんの2、3日お休みしただけじゃにか、と思いつつここをのぞいて驚いた。2週間近くも休んでしまっていた。最近、時間の流れがまったく体に染み着いてこないのである。
 とにかく次回作を作ろうということで考え込んでいる。そういうことを考えるには尋常ならない集中力がいる。一度にいくつものことを考えられる人もいるのだろうが、自分の脳味噌はそんなに器用な構造には出来ていないらしく、ほかのものはシャットアウトしなければ二進も三進も行かなくなる。

 実は、『アリーテ』の末期にもあった。『アリーテ』終了後にやればいいからと、プロデューサーが準備してくれていた仕事があったのだが、その『アリーテ』がとんでもなく長引いてしまった。しかも、用意されていた仕事というのが脚本を書くことだったのである。致し方なく、2週間と時間を区切って、監督は『アリーテ』の全作業から距離をおいてシナリオに勤しむ、ということになってしまった。当時は同じビルの中の5階と7階にスタジオ4℃のフロアがあり、『アリーテ』班は5階にあったのだが、わざわざ7階にもうひとつ机を用意してもらい、誰も近づけないように棚で囲み、そこに籠った。籠った後は天岩戸のようにスチール棚をずらして閉ざすので完全な閉鎖空間となる。そこで2週間の予定が、実際には3週間かかってしまった。
 にもかかわらず、バリケードを突破して入って来たのは仕上げの林さんである。聞いておかなきゃ先に進めない仕事がある、と言われれば、ごもっともと言うしかない。本来進行中の作品を放り出すわけにはいかないのが当たり前。
 そこまでやって書いたあのシナリオは今どこをさまよっているのだろうか。時々風の便りに聞くほかは、とんと行方を知らない。
 



  恵比寿 2001年08月28日(火) 

 恵比寿駅を降りると、これでもかとばかりに『アリーテ姫』のポスターで埋め尽くされた一角へ出る。周囲にはAreteと一文字違いのお店の看板なども大きく、雰囲気たっぷりな空間が出来上がっている。そのまま動く歩道を進むと写真美術館だ。
 写真美術館にはまた、これでもか、とばかりに『アリーテ姫』の雑誌記事の切り抜きが張り巡らされている。多くは恥ずかしくも監督へのインタビュー記事である。
「はい」と、小黒さんが手を挙げる。質問があるようだ。
「なんでどの写真も同じ服なんですか?」
 当代随一の観察眼で知られるアニメーション評論家だけあって鋭いツッコミだ。
 何故か取材の時の僕はオレンジのチェックのシャツばかり着ている。答えは簡単だ。あれが「よそ行き」なのであって、ほかに服を持っていないのである。まったく不精者ここに極まれりである。実際、本作で人前に出る機会が増えてきた頃、栄子プロデューサーから「着る物代」「クリーニング代」の支給を提案されてしまったこともある。

 今日、韓国から雑誌が送られてきた。このあいだのSICAFの時に取材された記事が載っている。韓国のカメラマンは、何故かこちらをモデルか何かのように腕組みさせたり、足を組ませたり、壁にもたれかからせたりする。しかし、送られてきた雑誌の写真を見て「その前にすることがあるだろう」と率直に思った。髪の毛を梳かさせるべきだったのではないだろうか。



  師匠に出会う 2001年08月25日(土) 

 恵比寿へ向かおうとして駅へ向かう道で、誰かが後ろから肩を叩く。
 誰だ、と振り向いたら月岡貞夫さんであった。大塚康生さんをして「アニメーターの天才ここにあり」と言わしめた月岡さんは、実は我が大学時代の恩師なのである。お互い同じ町内に仕事場があるもので、以前は昼飯の弁当を買出しに出かけるときなど、ひじょうにしばしばお目にかかれていたのだが、何故かここ数年お目にかかることが無く、久しぶりにお顔を拝見することが出来た。
「カタブチ君は太ったね。お腹もだいぶ出てきたね」
 それを指摘されるのはつらい。月岡先生も、往時は学生と間違えられて大学の警備員から学内への駐車をとがめられたりしたものだったが、さすがに還暦を過ぎておられる。にもかかわらず、あの東映長編『西遊記』のキャラクター小竜そのままの身軽さはまったく変わらない。授業中にうかがった様ざまな東映時代のいたずら談義も昨日のことのようである。



  一冊の本 2001年08月21日(火) 

 キネ旬の取材でお目にかかったライターの氷川竜介さんが、そのときのインタビューをカットされた部分も全文含めて、個人誌として出版されるという。というか、夏コミで販売されたらしい。12日のラピュタ阿佐ヶ谷をのぞきに来られたフランス人のアニメ研究家イラン氏もいち早くこの本を手にしておられた。そのマニアぶりにはまったく頭が下がる。
 韓国から帰ると当方にもお送りいただいた一冊が届いており、興味深く拝見した。前半のインタビューのところは、僕の受け答えがだんだん理路整然としなくなってゆく様が、客観的に見ると実に面白い。いや、それを面白がるのも不遜なことだ。氷川さんにはぜひもう一度取材の機会を作っていただき、もっといろんなことをお伝えしなければ、と思う。
 この本の見所はむしろ後半の解説記事である。インタビューそのものと同じページ数を費やして解説記事を書かれているのである。これを読むと氷川さんがこの作品の何処に感じるものをもたれたのかがひじょうによく伝わって来る。これほどの情熱を受け止める『アリーテ姫』であったのだとしたら、ほんとうにありがたいことだと思いつつ、繰り返し拝読する。

   『ロトさんの本 vol.7 新世紀のアニメを考える アリーテ姫』



  趣味の話 2001年08月20日(月) 

 僕が最初に名前を覚えたアニメーター、個人としてのその存在を認識したアニメーターとは、言わずと知れた大塚康生さんである。実は大塚さんの名は模型雑誌や模型メーカーのPR誌でひじょうに度々拝見していた。それから『侍ジャイアンツ』のクレジットでも何故かその名前だけが頭に残っていた。ただよくある話で「アニメーションの大塚康生」と「軍用車両研究の大塚康生」が同一人物だとは気づかなかったのである。ある日高校で、アニメーションに詳しい上級生からアニメーションの研究誌のようなものを見せられ、そこではじめて二人の大塚康生が実は同一人物だと知る。このことは個人的にはかなり重大なことで、その大塚康生さんの新作がはじまる、というので『未来少年コナン』を見はじめ、今に到ってしまうのである。大塚さんの軍用車両の研究はひじょうに詳しく、また、いったいその当時の日本でほかに誰が興味を持つのだろうというほどにとんでもない方向を向いており、それゆえにひじょうに貴重なものだった。イギリスの装甲車のトルコン変速機の原理を読みたくて仕方がないという人がそれほど存在したとは思えないのだが、大塚さんはそれを平然とプラモデル雑誌の原稿にしておられた。
 ところで、そういうものを読んでいた僕というものも、実は多少その方向に偏向しているのである。『未来少年コナン』にはいろんなところにを刺激されたが、飛行艇ファルコにエリコン機銃が積んであったり、研究用に仕入れた絵コンテでは改造後の重武装ファルコにシャークマウスのマーキングがしてあるのを見て、宮崎駿という人のマニアぶりを知ってしまうのである。
 『魔女の宅急便』で机を並べていたときは、二人でかなりその手の話題に興じていた。
「なあ、九七艦偵ってあったの知ってる?」
 これは、質問としては序の口である。そのくらいこっちだって簡単に答えられる。
 もっと時代が下って宮崎さんがポルシェ・ティーガーの漫画を描いておられたころなんか、名前を呼ばれるから仕事のことかと思って宮崎さんの部屋へ行ってみると、宮崎さんは生産中のティーガー戦車の写真に定規をあてているところだった。
「なあ、この装甲板、何ミリだと思う?」
 一時さかんにジブリに残ってくれと言いわれていたのだが、聞いてみると「宮崎さんの話し相手を引き受けるために」ということでだった。さすがにこちらも仕事をしなければならないのでそれは勘弁してもらった。
 『アリーテ姫』の開始直前、というと僕の仕事史の中でももっとも忙しい頃だったのだが、ちょっとした精神の箸やすめのような気持ちで、ある飛行機について製造番号と生産時期を掏り合わせるという妙な「自由研究」を個人的にはじめてしまった。傍から見れば、なんでこんなことをそんなに一生懸命、というのが趣味の道でなのある。



  なんだかまだまだつづく 2001年08月19日(日) 

 きのう成田空港で「それではまたいずれどこかで合いましょう」とお別れしたはずの古川タクさんと、今日もご一緒してしまう。ラピュタ阿佐ヶ谷で催されるノルシュテインさんのお別れパーティに招ばれて行ったらタクさんもいらっしゃったのである。
「なんだかまだ韓国にいるみたいだね」
 タクさんは今日も代アニのフィルムコンペの審査員を勤めて来られたとのことである。おつかれさまです。
 ノルシュテイン大賞に応募してノミネートされたという若い短編作家の方から、アリーテ姫に対する熱心な感想を聞かせていただく。
「僕もいずれは大衆に向けて語るアニメーションを作りたいんです!」
 ほんとうだ、この若く熱い血の息吹はきのうまでの韓国と共通している。







 
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