i-mode  検索  


(2001年10月17日(水) 〜 2001年09月26日(水))

  何も起こらない日々の連なりの中で 2001年10月17日(水) 

「『アリーテ』をテレビでやったよ。しかも、続けざまにもう何回も放映されてるよ。しかも昨日やった三回目のはバージョン違いだったのに、お客さんはちゃんと気がついてくれたかな、また同じのやってると思って見なかったかな。そうだそのことをホームページで書いておかなくちゃ」
 最近書きこめることも減ってきたので、これで書くことが出来たぞ、と、目を覚ましてパソコンを立ち上げる。
 そうして、ようやくそれが夢だったことに気づく。

 昨夜も一昨夜も縫いぐるみを縫い続ける人がいる。あれの販売告知はまだなのだろうか。



  数字との闘い 2001年10月16日(火) 

「このように脱稿前日まで新事実、新情報を追加され、そのたびに月産機数の算出に苦闘する片渕氏に大いに迷惑をおかけすることになったが、氏の大健闘により、「零戦」の前期生産分についてはかなり確実に、末期生産型については新事実を交えて中間発表的にその生産状況をほぼ明らかにすることが出来たと思う」
 ……というのは、最近出た某出版物の中の言葉。
 高々度からこんにちは、ということで今日も飛行機の話。
 苦闘だったかどうかはどうでもよいのだが、零戦の生産数の推移については、実は『アリーテ』が始まる頃にはすでに形になっていた。まだ準備班だった頃、制作の笠井君に見せたりしていた記憶がある。その当時「ここがわからない」というところが明確になっていたと言うだけでも、かなりのところは出来ていたと言うことだろう。それがひょんなことからもっと進んだ形をとることになり、出版物の端に間借りするように載ってしまった。
 土曜日に「エース」にお目にかかった帰りの新幹線の中で、前々から「こういうのがあるんですが」と言われていた数字の羅列を見せられる。
「……」
 まずいじゃないか。
 もう一回いちから計算やり直しを迫られる新データ−の出現である。しかも、解釈に困るのである。
 などと言っても誰もわかってくれるまい。わかってもらえなくて結構。数字の先に個々の機体が見えるのだ、と言ったところで、機体ごときにも誰も興味を持っていないのはわかっている。でありつつ、この「苦闘」はこのように永久に続くのかもしれない。ただ、最近さすがに数字いじりにも飽きて来ている。おかげで仕事に没入出来そうなのがこの際喜ばしい。



  眠るがごとき日々 2001年10月15日(月) 

 相変わらず次回作とやらに頭を悩ませている。
 しかし、傍から見るとどう見えるのだろう。
 特に絵を描くわけでもない。自分のするべきことが定まらぬうちに下手に原稿にまとめようとしても、それは中途半端な形に自縄自縛してしまうだけだから、それも避ける。
 ひたすら考えるだけの日々。 
 仕事場の机の上で突っ伏しているか、椅子を二つ並べて寝転がっているかどちらかだし(そのために自分用に椅子を二つ確保してある)、ときには考えるための「触媒」である文庫本などのページを開いているし。おそらく仕事しているようにはまるで見えない。
 午後になって仕事場の中が騒がしくなってくると考えごとどころではなくなるから、いっそ井の頭公園にでも出掛けてしまう。ポケットには小さく切った一掴みの紙切れとちびた鉛筆を入れて。公園まで歩くうちにたいてい二つ三つは何かを思いつく。机についているより余程効率が良い。カップルでいっぱいの公園で空いているベンチを見つけ出すのももどかしく、その思い付きを紙切れに書き付ける。すると、早速今思いついたことをきちんとノートにまとめたくなって、そそくさと仕事場へ戻る。しばらく仕事場の机についていると、また何も思いつかなくなる。また公園に足を向けている……。
 人はこういうのを「徘徊」というのだろうか。



  『エース』の肖像 2001年10月14日(日) 

 懸案だった『エースコンバット04』の打ち上げをついに終えたその余勢を駆って、ということになってしまうのだろうか、本物の「エース」という方にお目にかかりに出掛けた。
 戦争のために飛ぶ、ということの是非については色々あるだろうが、それはこの際脇へ置く。
 飛ばし方が難しく一癖も二癖もあったと思われる「A」という飛行機について「好きでした。愛用しました」と語られる。
「その機種特有の気分があるんです。ちゃんとそれをつかまえて乗ってやればいいのです。皆はわかってなかったのです」
 そう言い切ってしまわれたその上で、自分がそれとは飛行特性のまったく違う機種に乗っているときその自分が素晴らしいと思うA戦闘機にうしろから襲われたとしても、「こうやれば逆襲できます」とその方法を語ってしまわれる。自分の乗り物と状況をまったくもって手玉にとっておられたというのだ。単に「生き残る」以上のことをやってこられた方なのだ。
「ボンヤリしてる者には出来ません」
 ごもっともである。



  おのれの書いたもの 2001年10月13日(土) 

 この10月で仕事をはじめて20年になる。
 20年前、一週間という時間をもらって「名探偵ホームズ」のお話作りに勤しんだ。
 その2日目くらいに、友の死の報せを受けた。8月には中仙道の全行程を徒歩で旅する道中から絵葉書をくれた彼女は、風邪をこじらせてあっけなくこの世の人ではなくなってしまっていた。
 あまりに悲壮な気分に落ち込みながら、翌日からまた掏りの少女の話を書き続けた自分。そのときには、そのことの意味さえわからなかったように思う。今もわかっているのかどうか良くわからない。



  通り過ぎる夜 2001年10月12日(金) 

 懸案だった「エースコンバット04」の打ち上げを執り行う。
 ナムコのスタッフ、4℃のスタッフ、お世話になった方々、吉祥寺「いせや」に集い、祝杯を上げる。思えば心地の良い仕事であった。それも若いナムコスタッフ諸氏の爽やかさの賜物であったことをこうして久々に顔を合わせて改めて思う。打ち上げはスタッフ解散の式でもある。その寂しさ。だがその場で再びあいまみえんと約束出来ることは、また幸せである。
 帰り道、バウスシアターの前を通る。「アリーテ姫」のポスターが見当たらず、ふと考えて今日が最終日であったことを思い出す。
 いくつものことが通り過ぎていった夜であった。



  日曜日の風景 2001年09月30日(日) 

 今日も人形を縫う人がいる。
 今日は子どもたちの運動会の日だ。キャンプ用の小さな椅子をもって小学校に向かう。それから、朝早く起きて作ったお弁当も持って。いまどきの小学校の運動会では、子どもたちは教室で昼食をとる。校庭に残った親たちは、敷物や折りたたみ椅子の上で自分の分のお弁当を食べる。そこでも、彼女はまだ人形を縫っている。

 中身をまだ詰めないお手玉のような頭。
 小さな細い袋のようなものが20本。これは今に手足になる。



  久しぶりに制作当時の回想/その他 2001年09月29日(土) 

 99年の1月、新宿小田急美術館で『女性画家が描く日本の女性たち展』というのが催されている。その当時新聞でそれを知って、色彩の林さんといっしょに見に出かけている。
 日本画は、輪郭線で事物を描く、という意味でアニメーション・ドローイングの祖先なのである。『アリーテ』ではカゲを塗り分けるのも基本的にはやめようというプランだったが、それは何かに譲歩して妥協したからではなく、そういう表現がじゅうぶん可能だと踏んだからである。ノーマル/カゲの二色以上の色で表現していた質感をベタの一色で表すための参考というか、それを実際に塗る林さんの意識改革という意味でも、この展覧会へ行った成果はあった。
 大正から昭和戦前期の女流日本画家4人の作品が並ぶのを眺めるうちに、林さんと一致するものが多くなる。今、手許に残った印刷物で池田蕉園画伯の「かへり路」を見ると、アリーテの衣服、被りものなどの色合いの原形がすべてそこにあるのが見て取れる。

   ×       ×       ×       × 

 それはさておき、掲示板の方にも速報風に書き込んだように、4℃の社内でもグッズを作り、上映館であるバウスシアターに並べてもらっている。
 便箋や絵葉書は、実は1枚1枚カラーコピーで刷っている。というと値打ちが下がるようだが、実は下がらない。あんなに分厚いモコモコした葉書の用紙をコピー機に突っ込んでプリントするのもえらい手間なのである。紙が分厚くてすぐ引っかかってしまうし、カラーコピーは4回スキャンして4重に重ねてプリントするので1枚刷るのにもたいへんな時間がかかる。これを広報の桜井さんが仕事の合間にするのである。だいたいにおいて桜井さんの本業は経理なのだ。お金の計算だけでもたいへんなのに、その上広報まで背負い、挙句にグッズ製造業者をされている。アリーテ柄の手提げバックも、桜井さんが布からミシンで縫ったものなのである。
 アリーテ人形は、舞台挨拶に登場したものも含めて、全部作監補の浦谷さんの手縫いである。実は、浦谷さんは今現在自分で監督して短編アニメーションを制作中で、その原画も全部ひとりで描いている。その合間にユザワヤに材料を買出しに行き、帰宅してからアリーテの形に縫い上げるのだから、本人はバテバテである。
 そうして作った品物が上映初日で完売してしまった。ありがたいことである。ありがたさをかみ締めつつ、彼女たちはまたグッズ作りに精を出す。上映はあと13日間……。いったいどうなるのだろう……。  



  週末からの「アリーテ」の準備 2001年09月28日(金) 

 ILesson吉祥寺で催される「原画展」会場の準備風景を覗きに行く。
 一部宣伝では「スタジオよんどしぃ主催」ということになっているようだが、そうではなくてこの学校の方で主催されるのである。ありがたいことだと思う。
 ここではここ独自にアリーテグッズを作って販売されるようなのだが、桜井さんもそうとうリキが入っていて、アリーテの絵柄の手提げバックを作ったり、絵葉書の試作に勤しんでおられる。手提げなど、出来合いのバッグにプリントするのではなく、袋自体を縫って作っているのである。
 僕はそのあともう帰宅してしまうのだが、桜井さんはグッズを販売用に売店に置いてもらえないか、上映館であるバウスシアターへ挨拶に行くという。

 帰宅すると、桜井さんからのメールが追いかけて来た。

>バウスの本田さんにお伺いしたところ
>監督の講演は 最初から切望していたのに・・・
>というお話で、
>日程がよろしければ是非お願いしたい、とのことです。
>10/6,7,8のいづれかの日、12:00PMより、
>20分間程お願いできませんか?
>お返事は 月曜日でOKです。
>よろしくお願いします。

 ということで、また人前に出ることにあるようだ。もっとも、一応予感がしたので、昨日散髪には行って来てある。そんなことになるんじゃないかと思ってたんだ……。



  パのつく出来事二題 2001年09月26日(水) 

 このところパソコンを修理に出してしまい、困っている。何よりパンフの通信販売の注文をとっておいて、その御注文メールが読めなくなってしまったことだ。押し入れから古いマッキントッシュを引っ張り出す。以前、あまり古いので4℃でも使い手がなくて余っていたのを、パソコンの練習用にともらって帰ったものだ。
 マック、と言うと「なーに? G4?」とか聞かれてしまうのだが、甘い。型番が4桁の奴だ。こいつをインターネットに使うのも一苦労なのである。載っかっているソフトが「ネットスケープ2.02」とかいう、人に聞いても「骨董品」という代物なのだ。おかげで、かなりのサイトが文字化けして宇宙語のようになってしまう。
 というようなことを某所で愚痴ったら、さっそく友人がもっと新しいソフトをくれると言ってくれた。なんだか仕事が忙しくて大変だったところをわざわざ抜け出して来てくれて、駅のホームでその受け渡しとなった。

 家へ帰ると、留守中にイランさんから電話があったらしい。しかも、イランさんはフランスへ帰国中であるらしい。国際電話だったのだ。
 12月のパリの映画祭に招待しますが、お出でになりますか、と。
 しかし、フィルム自体への出品オファーに対する返事がどうなっているのか、僕はまだ聞いていない。明日、確かめてもらってから、イランさんにお返事することにする。







 
Cool Note Pro v4.6