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(2002年01月29日(火) 〜 2002年01月15日(火))

  『アリーテ姫』今昔物語(10) 2002年01月29日(火) 

 前回変なところで終わっていたのだが、ほとんど停まりかけの車の側面にこちらがぶつけたので、むしろ被害は向こうの方が大きかったのだった。こちらはその場でコロンと地面に転がっただけなのだけど、向こう様はドアを大きく凹ましてしまったのだった。ほんとうに申し訳ないことをしてしまった。

 その頃、というのはもう1997年になっている。夏に栄子さんから呼び出しをくらった。何かと思えば、何か片渕さんの作品をつくろうよ、というお話なのであった。どうしてそのように思われたのか、今にしてもよく分からない。おまけに、
「何にしようか、企画?」
 ということで、企画も何でもよさそうなのである。
 何でも良いということになると、自分としては正直『アリーテ』はすでに過去のものの部類に入りかけていた。何にしようか。
 だが、まあ、この際途中まで脚本の手がついているというのは楽なのかも知れない。栄子さんの印象だと、この時の僕は「高野豆腐のしぼりかす」みたいだったという。そういわれても仕方ないほどぼろぼろだったし、なんだかもう「量で仕事できる時期」は過ぎ去ってしまったという気にもなっていた。
 それに、おまけに映画化権料を負担してもらったままで、イギリスの原作者に支払ったお金を無駄にさせては悪いし。
 なんだか、アリーテをこのまま埋もれさせてしまうのは不憫という気がしてきたぞ。
「じゃあ…『アリーテ』でやってみようかな」
 夢のない話である。
 夢はそのあとに、栄子さんが広げる。



  『アリーテ姫』今昔物語(9) 2002年01月24日(木) 

 とりあえず『アリーテ姫』の製作予算が計上されない以上、別の仕事で働いて収入を確保するしかない。幸い2つの大きな会社から、僕個人へのお声がかりを得ていた。どちらを選ぶか、というより、ここは両方の仕事をいただいて両方ともにきちんとこなし切ることだ。
 ということで今日は日本アニメ、明日はマッドハウスと繰り返す暮らしが始まる。この業界に入って以来、妙なまでに劇場用映画の企画に執着していたために、テレビシリーズをまとめた量としてこなす経験をしないままここまで来ていた。この時期30代の半ばに差し掛かっていたのだが、体力などあと何年もつかわからない。こういうことが出来るのも今のうちだという気分だった。事実として、働ける限り働いた。仮に自分のフィルモグラフィーのようなものを作るとしたら、大半がこの時期の仕事で埋まってしまうはずだろう。
 そして、もうアカンという日が来た。
 原付で走っていて、横道を来る乗用車のどてっ腹にぶつけてしまったのである。朦朧と疲れきっていてその車に気付かなかったのだ。



  『アリーテ姫』今昔物語(8) 2002年01月23日(水) 

 この当時の『アリーテ姫』の製作方針(「制作」ではなくて「製作」の方)は、制作、作画、仕上、撮影、編集などの数社が寄り集まって、全体として「自主制作」を行う、というようなものだった。アニメーションの製作費の大部分は直接人件費なので、これを下請けに出すのではなく、それぞれの部門を担当する会社が自己負担して出資金に代える、ということだった。
 こういう場合難しいのは「気概」の持ち方である。いずれもスタッフを抱えて経営に苦労しておられる各スタジオの社長さんたちを束ねたとき、行き着くのは「現実として可能な負担」と「予想できる実利」の問題であったのは当然と言えば当然であっただろう。柔軟を目指して作り上げようとしたシステムが、かえって「固いところ」にしか目を向けなくなっていた。そもそもの原作がそうであっただけに「フェミニズム問題を扱った教育映画として、20分程度のもの」というのが、最終的な結論となりつつあった。
 そうではなく万人に向けてエンターテイメントの新しい形を示したいのだ、という本来の目的が生き残れる土壌ではなかった。
 監督権を預かるものとしては、これでは作る意味が見出せないと言うしかなくなった。

 この前代未聞の製作集団は解消されるしかなかったが、あとに残ってしまったものがあった。『アリーテ姫の冒険』の映像化権をスタジオ4℃の出費で取得してしまっていたのである。



  閑話休題 2002年01月22日(火) 

 ちょっとしたスケジュール的都合により、このところテレビシリーズの絵コンテに手を出している。テレビのコンテは昨年の……違った、もう一昨年になるのか、その夏に『まる子』のを2本もらったっきりなので、ずいぶん久しぶりになる。
 久しぶりにやってみて思うのは、「この肩こりの感じ、覚えがある」。何故か体のあちこちがこわばってしまうのだが、これが往時の通常状態だったのを思い出した。やはり日頃からこれぐらいのストレスに慣れ親しんでおいた方がいいのかも知れない。
 ということで本日は絵コンテ30カット達成。
 以前はこの倍くらいやっていたのか。午前中20、昼食から3時のおやつまで20、それから夕方まで20、計60カットくらいだったか。だいたい巡航で時速10カット、最高速度15カット/hといったところ。作品の中身が変わっても、ペースは変えないようにするのがコツなのである。それから柄にもなく頭を使ってしまうので、3時のおやつの糖分補給は欠かせないのである。
 60カット/日のペースだと、全編190カット級の『まる子』『あずきちゃん』だと3日で出来てしまう。280カットの作品だと5日弱、という計算。
 いずれにしても、アップが近々に指定されている仕事なので、明日も今のペース以下に落さずがんばらなくてはならない。らしい。



  『アリーテ姫』今昔物語(7) 2002年01月21日(月) 

 『大砲の街』は、たしかにカメラが人物とともに狭い廊下を移動してゆくようなコンテになっていた。これをクリアするために、大友さんと作画監督の小原秀一さんは、実際に模型の廊下を作ってカメラの立体移動を表現してみようとか、ビデオ編集機で絵に変形を加えて立体的に見せようとか、色々に試行錯誤をされていた。結局、これはマッキントッシュのパソコンを使ってやってみようというところに落ち着く。それまでは普通にセルアニメーションを作っていた4℃にはじめてデジタルが導入されたのである。
 もうひとつの方、大友さんが試みようとしていた15分1カット(実際には20分に増えた)の長回しというのは、実は自分の頭ではそれほど無理なことではない。小さいブロックに分けて撮影し、あとでオプチカル合成機を使って組み立てればいいのである。計算は成り立つ。ただ、そのバラし方組立て方は自分にしかわからない。人に伝えようにも、聞いている人間が「???」となってしまうだけなのだ。だから足抜けは許されず、そろそろスタッフを編成しようかというところまで来ていた『アリーテ』は開店休業となる。
 もっとも『アリーテ』をこねくり回すのでなければ、ほかの仕事をこなす時間も充分にあった。そこで、日本アニメーションへ行った佐藤好春さんたちの仕事の絵コンテを手伝うことにする。示された新シリーズのキャラクターはなかなか感じ良い。旧知の森川聡子さんが、そこでキャラクターデザイナーとしてデビューしていたのである。



  『アリーテ姫』今昔物語(6) 2002年01月21日(月) 

 佐藤好春さんに『世界名作劇場』の中核スタッフに戻ってきて欲しいという話が来た。一方で森本さんたちがオムニバス映画『MEMORIES』の1話と3話を作るために、吉祥寺に新しい4℃のスタジオが設けられている。六畳二間の民家はこの際閉じて、みんなそれぞれの道へ歩みだしてゆこうではないかということに相談がついた。
 僕は、栄子さんの旦那さんの会社の一角を間借りして、主な仕事としては従前どおりテレビシリーズの絵コンテの外注仕事をこなしつつ、『アリーテ』の準備を進めることになった。ほかにスタッフはなく、とりあえずお話作りである。場所は三鷹で、アニメーション制作の現場のある吉祥寺のとなり駅である。
 粗筋は割合に短期間で書いたように記憶している。冒頭からボックスに連れ去られるあたりまでは、その当時からほとんど変化していない。

 そういうものをもって、ときどき吉祥寺の4℃の栄子さんに見せに行く。ある日行くと、相談があるという。『MEMORIES』の大友克洋さんの担当分が『大砲の街』というのだが、大砲の資料を貸してくれないか、というのだ。どういうわけか大砲の本ならいくらか手持ちがあったので、お貸しすることにはやぶさかではないけど、ところで『大砲の街』ってどういう映画なの?
「全編15分を1カットで……」
「ええっ、そりゃあ無理だ」
「無理を承知で。片渕さん、アニメーションのカメラが画面の奥行き方向に移動するカメラワークって興味あるっていってたでしょ」
「難しいから興味あるって……」
「それもやろうとしてる」
「ええっ」
「……ところで……どう?」
 もう、『大砲の街』に頭を突っ込むしかないではないか。頭だけでなく、身のすべてを突っ込むことになってしまった。



  『アリーテ姫』今昔物語(5) 2002年01月20日(日) 

 原作に対して色々な人から色々な意見が出ていることは知っている。「落差」を感じられたという方も少なからずあるのだが、それは本格的な物語を期待して臨まれたからなのだろう。清々しい「児童文学」と思ってページを開いたら、実はややブラックなユーモア感覚で書かれた「寓話」だったのだから無理はない。
 自分自身としては、「自分の力で道を開いてゆく新しいお姫様像の登場」に本気で期待していた。その多くが「人の心」というもっとも難物である「現実の障壁」にぶち当たっても、それを苦もなく無力化し、平然と進みつづけてゆける新ヒロインを描ければ、「これはエンターテイメントになる」、そう思っていた。そんなことを思い描いたために、あの新聞広告が記憶に残っていたのである。

 1992年。原作の実物を手渡されてみれば、「そういう話」ではないのは一目瞭然だった。
 ここでもう一度新刊広告に目をとめた当初の抱負を呼び起こしてみた。そんなふうに考えたのは、よほど自分が「現実」というものに対して無力感とか閉塞感を感じていたからに違いない。実際そうした思いを味わうのは誰にでもあることだ。そうした気持ちに対する共感を映画の中で作り出し、脱出口を示せれば、「差別を受けている」と感じて発したフェミニズムへのひとつの答え方になるだろうし、それを単に女性だけの問題としてではなく性別を超えたところにあるものとして描くことだって出来るはず。
 つまり、「閉じ込められている者の気持ちになってごらん。そういう人にも心のあることを」と、語るのだと。 



  『アリーテ姫』今昔物語(4) 2002年01月18日(金) 

 そんな気分を嫌というほど味わっていたとある朝、トーストを食いながら眺める新聞ではじめて彼女の名と出合った。のちにその名は「天声人語」欄にたびたび現れることになるのだが、このときには紙面のもっと少し下の方、ページの一番下の端に『アリーテ姫の冒険』という児童書が新刊されるその広告が載っていた。
 黒澤明監督は、やはり新聞に新刊広告として載った『姿三四郎』という題名を見て、その足でプロデューサーに原作権取得の要請に行ったのだという。ではその本を読ませろ、と言われて、無理です、まだ出てない本ですから、と答えたという。それが彼の処女作となった。
 こちらにはそんなフットワークも度胸もあるわけではなく、ただ新刊広告の煽り文句を眺めては、こんなのを映像にしたらいいだろうなあ、と夢想しただけだ。ひどいことに栄子さんに4℃の台所で手渡されるまで、その本に目を通すこともなかった。
 ただ、あとで同じように企画関係に携わっている知人にその話をしたら、「僕も、あれは自分の仕事に関係ある、と思いました」と、その新刊広告のことを言っていた。もっとも、彼もその本を読まないのだが。
 実際に映画化することが決まってから、図書館の新聞縮刷版でもう一度その新刊広告を見直したのだが、そのどこにそんなに惹かれたのかわからない。
 にもかかわらず、その最初の出会いには得るものがあった。心の奥に灯った「作るべき映画」のおぼろげな姿の印象とともに、その題名は記憶に残された。時に1989年12月。



  『アリーテ姫』今昔物語(3) 2002年01月16日(水) 

 その当時のスタジオ4℃。
 子どもを保育園に送ってゆく都合上、僕の朝は一般的なアニメーション産業従事者よりだいぶ早い。午前9時過ぎには4℃に着く。六畳間の電気を点けると、床の寝袋がもそもそ動き出す。佐藤好春さんを起こしてしまったのである。けれど、いずれにせよ好春さんはこの時間には起きなければならない。好春さんはこれからジブリへ「出勤」しなければならず、ジブリは遅刻に対して罰金を科せていたからである。自宅が遠い好春さんは、ここで寝泊りして通勤時間を稼いでいたのである。
 そんなふうに、メンバーはそれぞれ別々の仕事をやっていた。
 たいがいはこの家に持ち込んでやっていたが、仕事によっては好春さんみたいに別のスタジオへ働きに行くこともあった。僕もここを拠点に東京ムービーやスタジオジブリに出稼ぎに出撃していた。

 僕がこの場所に加わったのは、みんなより少し遅れる。その前の一時期には、別の会社で劇場用長編の準備をしていた。すでに20代の半ば頃から何回か劇場版の監督やそれに近い職に補せられかけいたのだが、一度として制作が実現すること無いままここまで来てしまっていた。
 夢想ばかりを商売道具とする者にとって、現実が大きな壁のように感じはじめられていた。



  『アリーテ姫』今昔物語(2) 2002年01月15日(火) 

 4℃に持ち込まれてからも、女性だけのスタッフという構想のまま一度は当たってみたことも、実は一度はあったのだと思う。だが、何故かうまく引き受けてもらえはしなかったらしい。現実に自分の才能ひとつで世間の中を渡っている女性の目を引くには、もうひとつ何かが必要なのかも知れない。それは客観性というものなのだろうか。ならば、女性監督にこだわる必要もないではないか。

 スタジオ4℃は、『魔女の宅急便』のスタッフが解散したあと、その何人かが集まって作った集団として始まった。
 このあいだまで栄子さんの御一家が住まっていた2DK平屋の民家。その畳敷きの六畳二間に動画机を詰め込み、台所が制作部。たったひとりの制作は日本アニメーションからの派遣で、スタジオ4℃自体の社員などひとりもいなかった。その当時はまだ。
 その中に集ったアニメーターや演出家がひとりづつ順番に、やってきた機会をうまくつかまえて自分の作品をものにしてゆこう。森本晃司さんは『彼女の想いで』に取り掛かっていた。佐藤好春『おおかみと七匹の子やぎ』、山川浩臣『くじらぐも』……。
 男が監督してもかまわないじゃないか、と腹さえくくってしまえば、順番として『アリーテ姫の冒険』はまだ何の作品ももっていない僕、片渕が手がけるべきものだった。

 その台所で栄子さんから手渡されたとき、僕はすでにその本の題名に見覚えがあった。そう、これはあの本かも知れない。いや、そうにまちがいなかった。
 







 
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