子どもの頃同居していた祖父が映画館主だったりしたもので、「漫画映画」には慣れ親しんでいた。といっても、ディズニーみたいな洋画は入らないので、もっぱら東映動画ばかりでしかなかったが。
東映長編で心に残っていたのは、世間的に出来が良いといわれる『長靴をはいた猫』などでは何故かなく、『少年ジャックと魔法使い』とか『サイボーグ009』だったりする。それから、東映動画を出たスタッフが作った『九尾の狐と飛丸』だとか。 怪しいマシーンの上の口から投げ込まれた子どもが、下の出口からから小悪魔に変えられ吐き出される……。 ブラックゴーストに捕まって脳を再改造され、恐ろしい敵となってしまう003……。 きわめつけは『九尾の狐と飛丸』かも知れない。少年主人公の幼馴染の気立ての良い少女は実は実在しないのだ。少女自身が知らぬことに、彼女の人格は妖怪がこの世に潜むために隠れ蓑としてまとった仮のものに過ぎない。ある日本性を現した妖怪のあとを追い、剥ぎ取られ捨てられた仮面でしかない少女の人格を取り戻そうとする少年のむなしい戦い……。 自分が自分でなくなってしまうことへの不安。それを強烈な印象として抱いていた自分という幼児は、特別な子どもだったのだろうか。
青臭くて仕方ないのをお許し願いたいのだが、1998年1月頃のノートより。
「差別とは社会を覆う既存の価値観に盲目的に従う行為なのであり、それを覆そうというからには、ここでまた別な色の旗を持ち出して振り回してはじまらず、要はそうした感情をもてるだけの他人に対する想像力があるかないかの問題だと思う。そんな想像力を抱けないとしたら、それは自己防衛本能のためなのかもしれない」 「自己防衛本能の希薄な人物ほど、お姫様的ヒロインになぞらえやすい。しかしその人物には、コンプレックスにさいなまれる他人の魂への想像力は期待できない。原作が陥ってしまったのはここだろう」 「原作のアリーテ姫とは、実は、昔話にありがちなまったく無垢なるお姫様そのものに過ぎない。だからわがままにも見え、奔放でもあり得る。けれど、だから自由だ、とはいえない。大いなる「現実」に背を向け、まるで小さな箱庭で遊んでいるようにしか見えないのだ」
自分が描きたいアリーテと、すでに存在してしまっているアリーテ。 自分の幼児記憶に照らしてみれば、そのふたりのアリーテを統合するために「変身」という魔法を使ったのは、偶然ではない。
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