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(2002年03月01日(金) 〜 2002年02月08日(金))

  復活の辞 2002年03月01日(金) 

 TAF21以来風邪を引いてしまった。
 最近はインフルエンザには特効薬が出来ており、高熱などあっというまに去る。にもかかわらず、インフルエンザそのものではない「風邪」の部分がまだ抜けきれない。なんだかいつまで経っても喉がごろごろするし、体が気だるい。このままもう一生仕事する気力なんか沸いて来ないのかも知れない、と、ひどく落ち込んだ気分でテレビの絵コンテを一本上げる。約束より3日遅れである。
 ということで、本欄も今日は近況でごまかしてしまう。



  これがそれです 2002年02月16日(土) 


『アリーテ姫』が、
「東京国際アニメフェア21 長編部門優秀作品賞」
を受賞しました。
[Click Here!]



  東京国際アニメフェア21 スタジオ4℃ブース 2002年02月16日(土) 

アリーテ人形を手にとって喜ぶ尾崎和孝作画監督。



  これが人形です 2002年02月16日(土) 

小さい方が今回通信販売するものです。
大きいのはイベント用の"特注品"。




  本日も宣伝 2002年02月13日(水) 

封筒、便箋、絵葉書が入ったレターセットです。
あさってからブースに並べるのに、まだ価格未定とのこと。
スタジオ4℃で作ってます。



  広告(?) 2002年02月12日(火) 

スタジオ4℃で製作中のオリジナル缶バッジです。
この他にも何種類かあるようです。
製作班は3連休休みなしだったらしいです。



  『アリーテ姫』今昔物語(17) 2002年02月11日(月) 

 スタッフを集めなくてはならない。
 これが、人集めのシチュエーションだけであの長い映画の前半部を丸々費やした『七人の侍』ほどにもスムーズにいかない。

 とりあえず、4℃の方から制作で笠井君というのがひとりつく。ひじょうに調子の良い男で、こういう調子のよさは大好きなので重宝することにする。最初に千秋実の「平八」が来てしまった。
 『あずきちゃん』の色指定で組んだ林さんが、仕事をおくれ、と電話して来たので色彩設計に座ってもらう。仕上げが必要となるのは少し先になるはずなので、とりあえず4℃に入ってもらって『SPRIGAN』の仕上に席を置いておいて時期を待ってもらう。
 たまたま森川さんが前任のスタジオを退社されたらしいので、これ幸いと昔のよしみでキャラクターデザインをねじ込む。森川さんの造形センスは貴重である。4月からなら、と森川さんには応えてもらえる。

 1998年の4月である。この夏公開の『SPRIGAN』はまだまだ佳境の鳥羽口あたりで、スタジオはそのスタッフで埋まっている。『アレーテ』のためには、どこか別に準備室を作ってもらうしかない。
 ……なんだって? 『アレーテ』? そう。この時期には、そういう題名になっていた。このことにはまた後で触れる。

 吉祥寺にもまだこんなところが残っていたのだ。アパートの前の道は無舗装の土の道だし、DKではなくKのみついた六畳一間だ。
 この安アパートの一室が我々の準備室である。机2つ、コピー機を運び込んで作業を開始する。僕はまだ脚本の続き、森川さんはキャラクターの案を並べる。それから、それまでにいろいろ買い揃えてあった資料なども持ち込む。冷蔵庫も4℃のどこかから探し出して来る。
 やはり森川さんにキャラクターを作ってもらった『名犬ラッシ−』のとき、森川さんには少し昔のヨーロッパの写真集からポートレートを拾い上げて「顔」の造形のバリエーションを拾ってもらった。
「あの写真集、また貸して下さい」
 ということで、ベースは以前と変わらない。次の日、写真集を持参する。
 少し違うとしたら、今度は「中世」だということだろうか。そういえば『薔薇の名前』に映し出された顔がいかにも中世だったなあ。ビデオ、ビデオ……いや、その前にテレビもいるか。テレビデオを一台買って来るか。それを載せる台もいるし、まだまだこの部屋には必要なものがたくさんあるようだ。



  『アリーテ姫』今昔物語(16) 2002年02月10日(日) 

 最近のアメリカの娯楽小説を読むと、そのあまりに「漫画映画」じみた趣向にうんざりさせられることが多い。いろんなものが聖林化してしまっているようだ。自分が映画を見始めた頃のアメリカ映画はまだニューシネマの香を色濃く残していて、そんな頃になら冒険活劇を作りたかったかも知れないが、ハリウッドが漫画化してその臭みを周囲にまで撒き散らしているときに漫画映画の作り手たろうと志すのはすでに時期を逸したことでしかなかった。そう思ったのである。
 いや、まっとうに子どものために語るのならそれも良いだろう。
 だがこの映画はそうではないのである。

 「子ども向け」でもあって欲しいということはプロデュース・サイドから再三に渡って話されたが、この映画は違うのである。
「よしんば子どもの観客を招き入れるにしても高学年以上であるべきで、それとて今回の自分は正面から相手にしない。ただ、もしこれを見た子どもの心の底に何十年にも渡って沈殿しつづけ、やがて時を経て必要となった頃に、ああ、なるほど、と思い出させるようなものにはするのだが」と、言い返したのは、まったくの本心である。
 「大人」に見てもらうのならば、過剰なサービス精神はむしろ失礼に当たる。説明なんてうざったいのであり、相手はむしろ説明のないところに没入して解き明かそうという精神で望んで来るだろうから、それを意識すればコンテの立て方すらまったく変わるだろう。

 コンテをどうしようかとまで悩みぬいて新しいものを書こうとするシナリオゆえに、「わからないからもっと台詞で説明しろ」と要求されてしまう。「説明などされないから映画は面白くなるのだ」と反論したりする。こっちは、今の世にあっては映像的なストイシズムこそ貴重であリ、その提供こそが最大のサービスだと信じているのだ。
 人間苛々するとろくなことにならない。『SPRIGAN』の追い込みで獅子の如く奮戦した後、転倒して肋骨にひびをいらせた栄子プロデューサーの病室にまで打合わせに押しかけ、理解していただくためにベッドの脚を蹴飛ばしたりまでした。
「痛たた」
 と、うめく栄子さんは、ほんとうに骨折に響いて痛かったようで、たいへん申し訳なく思う。この時期は、まさに生みの苦しみであった。



  『アリーテ姫』今昔物語(15) 2002年02月09日(土) 

 この時期、つまり97年の暮から98年の頭にかけて書いたシナリオの書きかけやメモ書きが、それ以前のものまで混ざって大量に残っている。今読み返すと面白い。

 アリーテには年端が行かない弟がいるし、宝さがしの騎士の3人目も登場しているし、しかもこいつアリーテと相身たがう年恰好の少年で、なかなかに中心的役割なのだ。自分ではなりたくもない姫の婿となるために、がちがちの父親に脅され、後見されて、あげくにその父の指示の過ちで「本」などを持ち帰ってしまった少年は、再び宝を探す旅に出る……。
 アリーテの父王の後継ぎたるべき弟王子を亡くした王国の軍勢は、宰相インドミタブル卿(あの大臣のかしらはそんな名前なのだ。式部卿や大蔵卿もいる)を先頭に、今やアリーテたちの国となった旧ボックスの城領へ侵攻して来る。姫君を奪還して王国の世継ぎに据えるため、そしてアリーテが難題を解いて得た三つの宝を手に入れるためだ。その先導をするのは、先立ってボックスの城にやって来ては魔法使いに撃退されていたダラボア以下の騎士2名である。迎え撃つアリーテ側には、あの魔女いる。いまや3枚目になりきって、かってグロベルだったカエルを頭に乗せて物陰に隠れるボックスも。
 そしてアリーテは第二の難題によって手に入れた銀色馬にまたがっている。馬よろいがそのまま息づいているような、その銀色の金属の肌……。

 お話をとりとめもなく繰り広げるのは楽しく、また容易い。13本くらいのテレビシリーズを構成できるくらいの材料があったのではないか。
 だが、今至上命題として与えられているのは、低予算で60分に収まる内容のものとすることなのである。派手な見世物を一切断ち落としたとき残るもののことを考えなくてはならないのだ。それはどのような映画の形をとり得るのだろう。
 そしてこの当時、脚本を書いている当人はまだボックスの正体の発見に至ってはいないのである。



  調布 2002年02月08日(金) 

2002年3月10日上映







 
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