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(2002年04月20日(土) 〜 2002年04月10日(水))

  キャラクターアニメーション 2002年04月20日(土) 

 「ノートルダムの鐘」のテレビ放映を横目でチラチラと見ながら思う。ディズニー流のキャラクターアニメーション(アメリカ流のあの作画法はそういう用語で呼ばれている)は「いい女」「いい男」を描くのに向いていないのではないだろうか。
 彼らの根本にあるものは「キャラクターは動いていないと死んでしまう」という(意地悪く言うなら)アニミズムなのであるが、「いい女」「いい男」というのは見守るものに緊張感を強いるべき存在なのである。常時キャラクターを小刻みに動かせ続けることは、逆に緊張感を散漫にしてしまうのだ。アメリカのキャラクターアニメーションの根本は、道化師に向ける客観的な視線なのである。

 「アリーテ姫」ではこの問題にどうあたったかというと、白の姫君は極めてわずかな一挙動を、ごく長い時間をかけて行うのである。動画枚数中三十何枚の世界だ。これならば止め絵に陥ることなく、しかし、その微妙な動きが吸引力を発生させうるのである。
 そういえば、「アリーテ」の完成後に「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たら、やはり高畑さんは「いい女」「いい男」をきわめてじわーっと動かしておられたのを思い出した.



  鶏頭の如く 2002年04月19日(金) 

 厚みが2センチ超となったノートだが、最初の1センチ少しは今読んでもさっぱり意味がわからない。走り書きなので文字の判別が自分でも困難なのはともかく、何か気合を入れようと思って書いたらしい屁理屈が書き並べてあったり、だいたいにおいて、今主人公を張っている人物がはじめの頃には脇役で、しかも性別が違っていたりするのだ。
 逆に、とっくに頭から抜けてしまったノートの始めの方を今の時点で読み返してみると、結構示唆に富んでいることもあったりするものだ、と期待してみたりする。と思ったら、なんだか同じことが数ページおきに書いてあったりする。その都度新しい考えが浮かんだと思ってメモったようだ。結局、原稿にまとめるというのは、堂々巡りを固定してしまうための作業であるともいえる。

 忘れていたはずの少年の日々の心に火を点し直し、その思い出に別れを告げて真の大人への道を歩みだす、という「IT」の主人公たちの年齢が38歳だというのは面白い。執筆時の作者も同じ年齢だったらしい。千住さんの「人間37歳で道が分かれる説」がまたしても補強されたかのようだ。



  夏の訪れを待て 2002年04月18日(木) 

 しばらく上映情報が絶えていたのだが、色々なお話をいただいているらしいことをうかがう。少し気が楽になる。

 シナリオ、今日も一応進む。以前よりも気持ちのこめどころが見えてきたような気がしないでもない。しかし、この展開でいいのだろうか。思いついたことをメモしたノートが、束ねて張り合わせて一冊にして見ると、すでに2センチ厚を越えている。



  日々の光 2002年04月17日(水) 

 スティーヴン・キングを読んでるなんて意外、といわれてしまったけど(別に根に持ってるわけではありません(笑))、キングの小説の背景として大きな位置を占めている日常生活描写は、それ自体を主役にしても良いほどに美しい。「デッド・ゾーン」などという本の、実は自分の息子や孫であり得たかも知れない男の子を前に父親ごっこ、お祖父さんごっこをするやさしいシーンにうならされ、それを話の種にしてこちらの意図を説明しつつ、シナリオ・ライターと打合わせをしたこともある。
 「生活描写」が「アブノーマルな世界」を補完しているのがキングだとすると、「非日常」でもって「日常」の意味を高めたいと思うのがこちらなのだろうか。しかし、この両者はどれほど区別されるべきなのだろうか。
 ということで、高村薫も愛読している。ファンタジーの世界に飛び立ちかねない「李歐」をこの世に着地させているのは、生々しい生活感にほかならない。あるいは「照柿」を読まずしては「アリーテ姫」は生れなかったかも知れない。



  ちょっと嫌になる 2002年04月16日(火) 

 パソコンの調子がどうも何か思わしくないようなので、大事をとって使い慣れたワープロにシナリオを打ち込んでいる。ワープロ自体が消耗品のようなもので、長編のシナリオ1本書くごとに新しいのと取り替えるようなことになっている。といっても、単にダラダラ時間かけて書くうちに、あちこちぶつけたりして不調をきたすからに過ぎない。
 考えてみると、今もっている一番新しいワープロだって全然新しくないのである。信頼性という意味ではどうなのだろう。と、心に疑問を抱いてしまったのが運の尽きだったのかも知れない。4分の1まで出来ていたはずのシナリオが、何をどうやっても引っ張り出せないのである。 
 呆然とすることしばし。仕方がない。記憶が新しいうちにもう一度頭から打ち直すしかないではないか。
 と、この作業が思ったほど手間取らない。おまけに、なんだか前回より少しぐらいはこなれているような気がする。これも何かの思しめしと思えということなのだろう。
 だが、あまり何度も思し召しを喰らっても困るので、今回はバックアップを二重に取ってみる。多分そんなことは習慣づかないので、また同じ目に陥るに違いない。どこまで行ってもそんな自分なのはよく知っている。



  カントク、先生になる 2002年04月15日(月) 

 一年の半分ほどを週一で、ガラにもなく学校の先生などして過ごす。
 今日は新学期早々入学最初の授業というのに遅刻してしまった。
 しかし、居並ぶ生徒諸君の真摯な眼を見ていると、この若者たち全員が自分の望む職種で就職にありつけ、そこで使いものに育っていって欲しいものだと思う。現実は厳しいのだ。
「アニメーションの現場がデジタル化して撮出しの作業が軽くなり、演出助手の募集が減っているかも知れないから、演出家を志望する人は道を見つけるのがたいへんだと思う」などというと、早速進路についての相談を受けてしまった。自分がけっこうイレギュラーなやり方で業界に潜り込んでいるだけに、ついついイレギュラーな励まし方をしてしまう。
 教室で映画を見せて、教壇から偉そうに御託を並べて見たりするのが授業の主たる中身なのだが、「面白い映画でした、というだけの感想は駄目」といってみたら、
「先生の授業面白かったです」と来た。
 ほんとに優しい生徒たちなのである。



  八国山に遊ぶ 2002年04月13日(土) 

 本当は飯能の向こうの高麗の方まで山歩きに出かけるつもりだったのだが、午後から天気が崩れるそうなことをいう天気予報のせいで、家の近所のちょっと山めいたところを散歩して足慣らしということにする。
 例の七国山病院のモデルになったあたりから道をたどって、尾根に出て真っ直ぐ歩いて北山公園まで。普段歩きなれない人間にとってはそこそこの距離のはずなのだが、なんとも感じない。日頃、吉祥寺の街中を徘徊してしまっているせいなのだろうか。



  「異世界」を堪能する 2002年04月12日(金) 

 何かとお世話になっている金子由郎さんの写真展のオープニングに出かける。
 異国の子どもたちが、人々が、素朴なほほえみをレンズに向けている。カメラを構えた人の優しさが偲ばれ、その画面に心惹かれる。
 それにしても仕事で西域やイスタンブールに行けただなんてうらやましくてしかたがない。「次回」のあることに備えて機材持ちのアシスタントを志願してみる。
 
 シナリオの方、4分の1は出来上がったように思う。怪奇小説の霊験あらたかなのである。どうやら今回の主人公は旅立ちに成功したようだ。写真展で触れた異世界の香りもいずれどこかに忍び込んでくれるかも知れない。

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  ブースター 2002年04月11日(木) 

 カフカなんか読んでいそうでスティーヴン・キングなんか読まなさそうな人間と思われているらしいが、根っからのパルプ人間なので抽象的な思考とは無縁なのである。
 キングは、なんというかその場の筆力で目の前にある章をやみくもに耕してゆく、そのたくましさにたいへん勇気付けられてしまう。そういうものを求めるだなんて、もうひとつ自分が今書きつつあるものにノリ切れていない証拠なのである。もうあとちょっとでエンジンかかりそうな感じもするのだが。



  戦闘経過報告 2002年04月10日(水) 

 とうとうスティーヴン・キングの小説などを買って来てしまう。前回シナリオを書いたときに、キングのものを読んでいたような覚えがあるからだ。そう、もう明らかにゲンまでかついでいるのである。と、いえば、どのような状況かおわかりいただけるだろうか。
 というわけで、前にいったのとは違ってシナリオの工程は略さないことになっているのである。苦労しているのである。







 
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