「ノートルダムの鐘」のテレビ放映を横目でチラチラと見ながら思う。ディズニー流のキャラクターアニメーション(アメリカ流のあの作画法はそういう用語で呼ばれている)は「いい女」「いい男」を描くのに向いていないのではないだろうか。 彼らの根本にあるものは「キャラクターは動いていないと死んでしまう」という(意地悪く言うなら)アニミズムなのであるが、「いい女」「いい男」というのは見守るものに緊張感を強いるべき存在なのである。常時キャラクターを小刻みに動かせ続けることは、逆に緊張感を散漫にしてしまうのだ。アメリカのキャラクターアニメーションの根本は、道化師に向ける客観的な視線なのである。
「アリーテ姫」ではこの問題にどうあたったかというと、白の姫君は極めてわずかな一挙動を、ごく長い時間をかけて行うのである。動画枚数中三十何枚の世界だ。これならば止め絵に陥ることなく、しかし、その微妙な動きが吸引力を発生させうるのである。 そういえば、「アリーテ」の完成後に「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たら、やはり高畑さんは「いい女」「いい男」をきわめてじわーっと動かしておられたのを思い出した. |