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[ 『アリーテ姫』今昔物語(5) ](2002年01月20日(日))
原作に対して色々な人から色々な意見が出ていることは知っている。「落差」を感じられたという方も少なからずあるのだが、それは本格的な物語を期待して臨まれたからなのだろう。清々しい「児童文学」と思ってページを開いたら、実はややブラックなユーモア感覚で書かれた「寓話」だったのだから無理はない。
自分自身としては、「自分の力で道を開いてゆく新しいお姫様像の登場」に本気で期待していた。その多くが「人の心」というもっとも難物である「現実の障壁」にぶち当たっても、それを苦もなく無力化し、平然と進みつづけてゆける新ヒロインを描ければ、「これはエンターテイメントになる」、そう思っていた。そんなことを思い描いたために、あの新聞広告が記憶に残っていたのである。
1992年。原作の実物を手渡されてみれば、「そういう話」ではないのは一目瞭然だった。
ここでもう一度新刊広告に目をとめた当初の抱負を呼び起こしてみた。そんなふうに考えたのは、よほど自分が「現実」というものに対して無力感とか閉塞感を感じていたからに違いない。実際そうした思いを味わうのは誰にでもあることだ。そうした気持ちに対する共感を映画の中で作り出し、脱出口を示せれば、「差別を受けている」と感じて発したフェミニズムへのひとつの答え方になるだろうし、それを単に女性だけの問題としてではなく性別を超えたところにあるものとして描くことだって出来るはず。
つまり、「閉じ込められている者の気持ちになってごらん。そういう人にも心のあることを」と、語るのだと。
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