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[ 『アリーテ姫』今昔物語(16)](2002年02月10日(日))
 最近のアメリカの娯楽小説を読むと、そのあまりに「漫画映画」じみた趣向にうんざりさせられることが多い。いろんなものが聖林化してしまっているようだ。自分が映画を見始めた頃のアメリカ映画はまだニューシネマの香を色濃く残していて、そんな頃になら冒険活劇を作りたかったかも知れないが、ハリウッドが漫画化してその臭みを周囲にまで撒き散らしているときに漫画映画の作り手たろうと志すのはすでに時期を逸したことでしかなかった。そう思ったのである。
 いや、まっとうに子どものために語るのならそれも良いだろう。
 だがこの映画はそうではないのである。

 「子ども向け」でもあって欲しいということはプロデュース・サイドから再三に渡って話されたが、この映画は違うのである。
「よしんば子どもの観客を招き入れるにしても高学年以上であるべきで、それとて今回の自分は正面から相手にしない。ただ、もしこれを見た子どもの心の底に何十年にも渡って沈殿しつづけ、やがて時を経て必要となった頃に、ああ、なるほど、と思い出させるようなものにはするのだが」と、言い返したのは、まったくの本心である。
 「大人」に見てもらうのならば、過剰なサービス精神はむしろ失礼に当たる。説明なんてうざったいのであり、相手はむしろ説明のないところに没入して解き明かそうという精神で望んで来るだろうから、それを意識すればコンテの立て方すらまったく変わるだろう。

 コンテをどうしようかとまで悩みぬいて新しいものを書こうとするシナリオゆえに、「わからないからもっと台詞で説明しろ」と要求されてしまう。「説明などされないから映画は面白くなるのだ」と反論したりする。こっちは、今の世にあっては映像的なストイシズムこそ貴重であリ、その提供こそが最大のサービスだと信じているのだ。
 人間苛々するとろくなことにならない。『SPRIGAN』の追い込みで獅子の如く奮戦した後、転倒して肋骨にひびをいらせた栄子プロデューサーの病室にまで打合わせに押しかけ、理解していただくためにベッドの脚を蹴飛ばしたりまでした。
「痛たた」
 と、うめく栄子さんは、ほんとうに骨折に響いて痛かったようで、たいへん申し訳なく思う。この時期は、まさに生みの苦しみであった。


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